📔 日記

そうだ、海行こう


 日曜日は春のように暖かくなった。一週間ぶりに布団を畳んで床を掃除した。窓から明るい陽射しがもれて床にさす。海に行くことにした。

 外は思うほど暖かくない。春先らしい冷たい風が吹きつけている。履いてきた靴が足に合わず歩きにくい。ぎこちない足取りで繁華街を抜けて電車に乗った。街も駅も人が多かった。

 二駅で降りる。港町の小さな駅は改修中だった。改札機が増設されて二台に増えていた。清掃員のおじさんが几帳面に床を掃いている。すれ違うとおじさんが「こんにちは」と言った。

 駅を出ると、まっすぐ伸びた道の先に青い水平線がちらりと見える。その広い通りをはずれて狭い路地に入った。陰気な住宅街を抜ける。侘びた裏道の先に空がひらけて、波音の響いてくるのが良い。風に乗って潮の香がした。
 歩いているうちに汗ばんできた。上着を脱いで歩いた。

 前回訪れてから数年経っていた。幾度も足をはこんでいるさびれた港町だが、年々と洒脱な店舗が増えて賑やかになっていく。そうして日向はより明るく、日陰は一層暗くなって、繁栄とともに陰影を濃くしていく町だ。寂びれ具合が好きだった自分には魅力が減っていくように見える。

 海に出た。防波堤に沿って自家用車がずらりと並んでいる。浜には家族連れやアベックが歩いている。凧をあげている子供もいた。陽光を跳ねかえして、なぎさは眩しい。そのきらめきの中を犬と飼い主の影が歩いている。スローモーションのように見えた。

 自分も浜に降りて波打ち際まで近づいた。人のいないところまで歩いた。ごろた石を何度も踏みはずしてよろめく。
 地の果てまで来た。打ち寄せる白波に泡沫のはじける音がする。沖は青い。伊豆半島の影が夢のようにもうろうと浮かんでいる。波の音と海の色は昔と変わらない。カモメが頭上でホバリングしていた。

 汀に沿って歩いてみた。何か宝物が落ちていないか探したが、バーベキューのゴミばかりだった。海草が打ちあげられて石の上で干からびていた。

 小さな犬が散歩に来ていた。飼い主がリードを外すと、一目散に自分へ向かって走りだした。そうして足元に飛びかかった。お愛想に撫でていると、そのうち牙をむいて吠え出した。飼い主が駆け寄ってきて「すいません」と言った。言外に「ふだんはそんな子じゃないんですけどね」という言い訳が聞こえてくるようだった。犬は手を出したら噛み付きそうな剣幕で、自分は腕を引っ込めた。飼い主はふたたび「すいません」と言って、興奮した子犬を抱き上げて去っていった。

 またよろめきながら石ころを渡って陸に上がる。海の前に新しい店がいくつも出来ていた。そうして店先に人があふれていた。その賑わいを素通りして駅のほうへ向かった。

 自分は駅の近くにある、たいやき屋を目指した。数年前に一度訪れた店だった。古民家を改装した趣のある造りで、一坪ほどの厨房に中年の女店主が一人で立って切り盛りをしていた。前回は猛暑日で、少し歩いただけで汗だくになった。店に着いてようやく涼めるかと思ったが、冷房がなかった。蒸した座敷で、ほかほかのたいやきと、あつあつのコーヒーをいただいた。餡が喉を通らなかった。コーヒーは味がしなかった。たいやきは夏に食べるものではないとおもった。涼しくなったらもう一度来ようとおもっているうちに歳をいくつもとってしまった。

 前回目印にしていたものがなくなっていたので少し彷徨って店を見つけた。古民家の趣は変わらないが、中からにぎやかな人声がした。店先のベンチにも客が座っている。戸口を透かして見ると、厨房に気の強そうな女店主がせわしく立ち回っているのが見えた。そのまま素通りした。

 駅に向かう。駅前に和菓子屋がある。古くて粗末な店構えだが安くて美味しい。少し変わった屋号で、訪れるたびに記憶して帰るが、帰るたびに忘れる。 店は営業中ののぼりを立てていた。しかし通りの向かいにあって車は途切れなかった。信号機までは遠かった。午後の白けた光りを浴びて駅前の風景が色あせて見えた。合わない靴がうっとうしい。店は素通りした。

 駅では清掃員のおじさんが床を掃いていた。すれ違うと「こんにちは」と言った。


(動画を撮りました)
そうだ、海行こう

← 日記一覧に戻る