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デジタルガーデンに入れない僕
2026/01/03
さいきんはデジタルガーデンというおもしろい考え方があるらしい。でも、おもしろいとは感じるけど、調べてみてもむずかしくてよく分からなかった。こうすればこうなるよっていう技術ではなくて、こういう考え方でインターネットに向き合うんだいという、哲学なんだろうと思いました。
ばらばらの小さな考えをつなぎあわせて、意味のあるかたまりに変えようというそのテクニックは(ちがってるかも)、大昔からあるし、誰もがふだんの生活や仕事でやっている、平凡な技だと思う。
でも、近ごろはObsidianみたいな便利なツールや、Markdownみたいな洗練された技術ができたことで、その「平凡な技」の効率がすごく向上したんだと思う。
それが、今のネット社会への反発心と重なって、「流れる情報から蓄積する情報へ」という方向転換に、価値を感じるひとが増えたってことかな?
おもえば、1990年代のインターネット黎明期に、個人がネット上にじぶんの居場所を手作りで建設しはじめたときは、そんな言葉はなくともデジタルガーデンが主流だったように思う。今とちがうのは、自由意思でそれを選択していたのではなくて、技術が未発達だからそれしかできなかったということだ。
アナログ回線がISDNになって、ADSLになって、光回線になっていくうちに、情報のめぐりが速くなった。水たまりみたいに点在していた静的サイトが、どんどんつながって川の流れになり、誰も逆らえない濁流になってしまったんだ。
平均回帰という言葉があるけれど、行きすぎたら戻るのが世の習いだから、今このタイミングで、インターネットはすこし多様性を取り戻そうとしているのかもしれない。
で、僕もこのビッグウェーブに乗るしかないぜっておもってデジタルガーデンを調べたんですが、これって要は、膨大な情報を扱って、高度な知的作業を行う研究者や学者が主なお客さんで、ぼんやりと平凡な生活を送る僕などはお呼びでないぜっていうことがわかった。物珍しさで乗り出す一般人はたくさんいるけれど、その人が一年後も続けてるかどうかは怪しい。
僕なんかは一生かかっても、ふせん一束あれば足りる情報のなかで生きているので、obsidianもMarkdownも使いこなせないにちがいない。
でも最初に感じたように、デジタルガーデンは技術ではなくて哲学だから、その気になれば誰もが自分に合わせたレベルで活用できるものだとおもう。僕がこのサイトを作ろうと思ったのも、デジタルガーデンという言葉が、あいまいな動機にはっきりとした輪郭をあたえてくれたからだ。
ふだんから僕たちは、心のなかで、頭のなかで、深層心理のなかで、常にデジタルガーデンをやっている。人生という巨大な模造紙の上で、永遠に未完の設計図を描き続ける。人間はもともとデジタルガーデン的にしか生きられない存在だ。SNSへの反発とデジタルガーデンの評価は、ネットに奪われかけた人間性を、ネットの中にいながら取り戻そうという、ニ十一世紀人の第二次性徴期なのかもしれません。
追伸 デジタルガーデンってなに?